第二回吉阪隆正賞・準備シンポジウム『吉阪隆正賞とは何か REVISED』

このシンポジウムは、第一回吉阪隆正賞決定の経緯をふりかえること、第一回目受賞直後に発生した東日本大震災における"転換期"的状況を背景として、第二回吉阪隆正賞に期待する方向性を各審査員によって検討したものである。
第一回吉阪隆正賞の決定経緯については、本人の了解を得て、受賞者田中泯とともに最終選考まで健闘された建築家・大塚聡(大塚聡アトリエ代表)を招いて、詳細な検討を行った。

 

■日時:2012年7月28日(土)16時00分~19時00分
■出席者
内藤廣(選考委員会委員長・建築家)
岡崎乾二郎(選考委員・造形作家・近畿大学教授)
中谷礼仁(選考委員・建築史家・早稲田大学教授・司会)
西川祐子(選考委員・元京都文教大学教授)
藤井敏信(選考委員・東洋大学国際地域学部長)
松山巖(選考委員・評論家)
大塚聡(大塚聡アトリエ/第一回吉阪隆正賞次選者)
*審査員の進士五十八先生は都合のため欠席

 

◎議事録

第一部 第一回吉阪隆正賞の結果をどう考えるか

<第一回吉阪隆正賞の結果を振り返る>

岡崎:
 第一回吉阪隆正賞受賞の田中泯さんで、受賞対象として評価され審査員の間で議論になったのは、表現活動(田中泯さんの場合、舞踏)が、個々の特性をもった場所とどう接続されるか、さらにそれを超えて新たな場所、コンテキストをどう生成するか、ということだった。つまり1980年代後期から続けられた白州アートキャンプから現在の桃花村までの活動をどう理解し評価するかが焦点だった。表向きは田中さんの方法は90年代半ば以降、一般化され、妻有や瀬戸内芸術祭などに見られるようにいわゆる地域起こしの手法として普及してしまっているように思える。けれど田中さんの核心には、舞踏あるいは作品が安心して受け入れられ着地できるニュートラルな場所というものもまた一方で、ルーティン化した日常的生活も保障されないところ=つまり人々とのコミュニケーションが断絶し、さらに生命的活動ですら脅かされる危機的、例外的な状況いわゆるアウェイ状況で、作品(舞踏)がどう新しい場所を開くか、というところこそにその活動の核心があった。ゆえに田中さんにはまっすぐ立つこともむずかしい危険な斜面を舞踏のはじまりに置いている。だから昨今流行の地域おこし観光事業的なアートイベントが既存の共同体にいかにすりあわせ、市民、住民の幅広い理解を獲得するか、という行政的枠組みの普及活動が、結局、ただ芸術の間口を広げ、地域の生活に芸術を水のように薄めて浸透させてしまうだけのポピュリズムとは、田中さんの発想も活動もまったく真逆であった。つまり日常の安定した生活がいかに危機の上にたち、表現活動はいわば、あえてこの危機の境界線の上で、その境界こそをどこにも属さなかった新しい場所として切り開いていく作業が田中さんの活動の中心にあった。田中さんの受賞が決定したあとすぐ一ヶ月もしないうちに、実際の震災が起きた。実際、大地は斜面となり、振動し安全というポピュリズムの欺瞞はあきらかになり共同体、行政などの制度すべての信頼関係も破壊された。このような状況の中で、受賞講演はこの震災直後だったけれど、田中泯さんが語った言葉は重く響いた。

西川:
 田中泯さんへの授与には当初は戸惑いがあった。資料写真から日本的共同体への回帰をイメージさせられたからである。しかし、現地視察を通して、そこが閉じた共同体ではなく、むしろ自らを世界へむかって開かなければ生きていけない空間であり、協働によって切り拓き、そこから発信している空間であるということを感じた。

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<第一回吉阪隆正賞次選者 大塚聡氏の応募作品をめぐって:映画『夜を駆けて』(日本/韓国、監督金守珍、2002)の屋外バラックセットの設計と製作>

内藤:
 映画というのは良くできた嘘である。虚像だけれどその先に真実が見えるのが映画。評価する際にはセットを通して未来が見えるか、という点を考慮した。在日問題を扱ったことも重要であるが、そこからいかに離れて評価できるかも検討した。評価が難しかった。

藤井:
 私はアジアの地域開発を仕事として、開発が進む都市スラムの実情を見聞してきた。政府は行政力が不足し、環境の改善にはあまり役に立たないので住民自らが住環境をつくっていく取り組みをいろいろ拝見してきました。その経験と比べると、大塚さんのバラックづくりは、評価できる面があるものの、結果には違和感を感じた。内藤先生が「映像は虚像を通して真実をつかむ」ということをおっしゃられたが、大塚さんの作品では日常を表現するリアリティの点で物足りなさがあった。ただ応募されてきた多くの建築作品の中では、もっとも吉阪隆正賞に近い場所にあったと思う。

松山:
 実は大塚さんとはじめて会ったのは、20年ほど前、彼が上野の不忍池の上に唐十郎の巨大なテント小屋を設営したときです。彼はその後も新宿梁山泊の舞台装置をずっと手がけてこられ、ですから応募作品はその実績のうえにつくられている。これは高く評価したい。一つのデザイン行為は一朝一夕でできるわけではない。一方で、バラックにリアリティがない。私は学生時代にアメ横の街を地図に落としながら何ヶ月もかけて調べました。あのように巨大化したバラックの屋根は切妻にはなりません。切妻だと谷の部分に雨が漏れます。だから巨大化すると、あたかもトタン板でできたテントのように一体化してしまう。屋根のリアルさに欠いている。最後にバラックを燃やしてしまうけれども、その後、じつは別の用途に使っているとか、デザイン行為が場所に影響を与え、変化させたとすれば、素晴らしかった。少なくとも田中泯さんの作品は過去から今も持続している。

岡崎:
 たとえば唐十郎が60年代末に新宿花園神社や新宿西口公園で紅テント公演を行ったときは紛争となり、あげく機動隊に包囲されるまでにもなった。演劇は虚構として制度外にありうる現実、あるいは虚構として制度の外に追いやられ、語られえず、見られることもかなわぬ現実を示す、いいかえれば所詮はファンタジー、虚構だけれども、その虚構を現実の空間の中に出現させることこそが社会的かつ政治的な事件なのだ、という共通理解が、田中泯さんも含めてその時代にはあった。虚構を現実に立ち上がらせることは制度を揺さぶり、制度の変更もしくは解体への契機をもたらせることもある。大塚さんの仕事、新宿梁山泊に、そういう流れの展開を期待していた。建築を含めて、ものつくりは、まずは虚構、テンタティブ、仮設的にものを立ち上げることからはじまる、制度的現実に対して、これが反証となり、別の現実がなんらかの形で持続性をもった、別のシステムを組織しうるか。そういう活動を行っている人を評価したい。韓国のロケ地に映画セットとしてのスラム街をつくった大塚さんの仕事にも、映画のためのセットが、映画のための舞台装置を越え、つまり映画内世界は完結しても、そのセットが、現実的な生活空間として機能し、歴史的事実として持続展開していくというような可能性を見たかったのだが、われわれの期待は、残念ながら、作者たちの意図とはすれちがっていたのかも知れない。

中谷:
 大塚さんの仕事の可能性を切り開いていくことも必要だろう。ものづくりは基本的に虚構であって、その存在を認めなければならない状況をつくりだせば、それは論理的に新しい措置や制度を生むきっかけになるということ。こういう意識が、応募者側にやや不足していたのが残念だったと思う。

西川:
 架空のセットで現実の生活を行なうという話があったのだが、それについてもっと説明がほしかった。また、セットを大阪ではなく韓国でつくった意図について説明を求めたら、広い面積をとれる場所が韓国にあったから、という答えだった。しかしそれは本来であればもっと重要な意味を持っていたのではないか。原作には民族を前提とした祖国復帰というテーマ以上に、国境を超えた行き来に対する意識、国境を超えた生活圏という考え方が描かれている。すごく期待をしていたので、とても残念だった。

内藤:
 クリエイターが生み出しているものを現実が超えてしまうことがある。9.11を通して芸術表現が現実を超えられなくなってしまったということもあるし、オウムの時も起きたかもしれない。3.11も何か表現するということをはるかに超えた現実がある。どうしても被災地の瓦礫の風景と大塚さんの映画のセットを見比べてしまう。時代の大きなうねりが浮かび上がるときに、表現が何かを失う、ということがあるかもしれないと感じた。

岡崎:
 制度内的ルーティンで処理できない出来事が起こるのを例外的な状況というけれども、このような状況が現前していないとき、それは虚構として現実の外に隔離される。こうした制度に仕分けされた表現ジャンルというアパルトヘイト内だけで平然としている表現はお話にならない。だが実際に例外的状況が起こって、それが続いている。吉阪隆正は、建築が解体される極限としての例外的状況を二つ考えた、ひとつはミクロな生活場面の終わりなき、境界なき進行、ここで建築という輪郭は、なんなく崩れさる。もうひとつは国家、都市という政治およびインフラの外部、それが機能せず制御不可能な状況、砂漠や月や南極などの極地。あるいは放射能にさらされている場所。いま、われわれがいるのはこの二つの中。これらの危険がルーティン化した現実に入り込む可能性はかっては、空想、虚構としてあざ笑われてきた。地震になったら原発の中がいちばん安全ですというフィクションが信じられるべき話として流布していた。これが逆転した。僕にとっては、吉阪はこのルーティンからするとフィクションにしか見えない、通常の建築が可能でない、それが崩壊してしまう例外的状況からこそ建築を考えるということをやった人です。関東大震災の後には個々人が勝手にバラックをたくさん作った。まさに戦後の大阪砲兵工廠跡地で活躍したアパッチのように。しかし今回はバラックが出現しなかった。こういった事に対する不満と大塚さんの作品に対する不満は同じ。大塚さんはバラックを建てていいよ、というところにバラックを建てている印象が強かった。吉阪賞においてデザイン行為とは、例外的状況でものを組み立てる、例外的状況をつくりだす、とかいうこと。つまり日常/非日常、虚構/現実の線を引き直すということこそが僕の思うところ、吉阪賞におけるデザイン行為の意味です。これは制度に裏切られ、制度が崩壊し多例外的状況でも生き延びる、サバイバルとしてデザインの方法でもある。こうした発想をもっている応募者はとても少なかった。

大塚:
 吉阪先生の魅力は、モノをつくる方法をモノをつくりつつ考えて、モノをつくる方法がモノをつくらせてしまうような点である。不連続統一体という言葉のわかりにくさに、それがよくあらわれている。他者との会話が成り立つ基盤はつくるが、人それぞれ受けとめ方は違う。小さいものから大きいものまで包括するような言葉をつくっていくことが自分にはまだ欠けていると感じている。

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第二部 吉阪隆正賞とは何か・REVISED -第二回吉阪隆正賞へむけて-

<吉阪隆正賞に期待するもの>

西川:
 吉阪隆正賞を隔年で5回、10年続けるという企画だときいているが、10年というのは転換が具体化する時間であろう。吉阪隆正賞では転換期がどんな形で起こり、どのような意味をもつかをもっとはっきりさせてゆかねばならないと思っていた。そういうときに3.11が起きた。加納実紀代さんの論文のタイトルをお借りするなら、「ヒロシマとフクシマの間」を考えなければならなくなった。ヒロシマは戦争の後の廃墟、そして現在、復興を経た高度経済成長が残した廃墟にわたしたちは立っている。フクシマは、復興の彼方に瓦礫の山をきづくことをくりかえしてそれでいいのか、という問いを突きつけてくる。戦後とは何だったのか、廃墟から何をいかにして復興した結果、ふたたび文明の廃墟にゆきついたのか。復興イデオロギーを批判的に捉える必要がある。敗戦直後も今も、復興とは家族の絆と国家の再建だと声高に言われるが、家族と国家とは排除性が共通する。戦争では兵士たちはしばしば家族の幸福と国家の栄光をまもるためと自分に言いきかせて、「われわれ」ではない「かれら」に対して銃を発射させた。復興イデオロギーの罠にはまらない方向性をさがしつづけたい。

松山:
 現代の建築デザインは市場原理によって動かされています。無意識であってもこの原理から免れない。私は市場原理にできるだけ乗らない人に賞をあげたい。賞をとると市場に乗ってしまうという矛盾があるが、田中泯さんは少なくとも市場から離れてやっているようにみえるので、田中さんの受賞に満足しています。
 私は土門拳賞、伊藤整文学賞の選考委員もつとめています。土門拳賞は写真の賞なので、3.11をテーマにした作品がいくつか推挙されたけど、私はそういう作品は選びませんでした。六五歳を過ぎて、あえて青春18きっぷで乗った列車から撮影したスナップや、シルバーパスで乗った路線バスから撮影したスナップなど10年以上かけて撮ってきた高梨豊さんの作品を選びました。伊藤整文学賞でも震災には関係のない堀江敏幸さん、川本三郎さんの作品に授与しました。堀江敏幸さんの『なずな』は震災を描いた作品ではないが、小ささや弱さが人々を結びつけるのがテーマでした。3.11の後だからといって、支援した人たちにあげましょうという話しはやめた方が良い。震災まえから、自分の理念を変えず端っこの方で何かをやっている人の方が信用できる。一朝一夕ではつくれないもの、これまでは世の中には認められなかったけれども、不思議と今の時代に合っていくような作品に吉坂隆正賞をささげたいですね。

藤井:
 今から100年程前に、コルビュジェやライト、ハワードなどが出てきた時には、時代がコンクリート、ガラス、鉄を素材に近代の要請に合わせた形をつくり、そこには合理性と必然性があった。1970年代には経済成長の中で起こった乱開発などの社会問題に対して大平内閣では定住圏構想を打ち出し、都市と農村をつなぐことを提言した。勢いのある時代にはいろいろな議論はあるもののそういった修正をしっかりと発言できるリーダーがいた。これからは先進国では高齢化、少子化が進み、経済状況も変わってくる。変わらなければならないという状況が起きている。グローバリゼーションのなかでコストパフォーマンスやユニーク性が優先され、商品がとっかえひっかえ出ており、それをファッションとして不思議に思わない状況がある。しかし、もっと大きく生活のあり方を巡って本質的な議論が必要だ。例えばアジアのスラムは自然生成的であり、こういうものが(いろいろ意見はあるだろうが)生き続ける原型なのではないかと思う。それに直に賞を与えるのは難しいと思うが、時代の変わり目にはこういう視点(自立、共同)のもとに、新たなかたちづくりが必要なのではないか。

岡崎:
 転換期というのは一つのパラダイムから次のパラダイムに移っていくこと。でも僕はむしろずっと転換期の意識を持続することのほうが重要だと思う。例外的状況こそが基底的であるということ。パラダイムとはいわば制度を統制しているさまざまな規範、価値観の束、平たくいうと世の中を支配している常識、通念の秩序。誰もが一致する合い言葉というものがその時代のパラダイムを代表してもいる。高度成長とか。70年代に入ると成長を維持するという目標があった。今は復興、失われたものに戻ろうという目標。いつも一致した目標があって社会はまとまる。が、例外的状況とは、この合い言葉にこそ潜んでいた矛盾が露呈して、社会に亀裂が走ること。パラダイムは必ずそのパラダイムが無効となる例外状況を外部に排除している。いかなるパラダイムも必ず破綻する。新たな合い言葉に歩み寄り、大勢=体制の合意をえようとするよりも、安定→崩壊→安定のプロセスの必然をふまえ、さまざまな異なる領域、異なるパラダイムが葛藤しつつ、なお均衡をぎりぎりとろうとして、境界線がゆれうごく動的な過程としてデザイン行為を考えたほうがいいだろう。固定しても必ず崩壊する。常に転換期にあるというのはこういうこと。
 表現の判断基準がルールのようにあると信じられるのは、表現が受け入れられる枠組み、パラダイムを前提としていること。そのパラダイムが崩壊している。あるいはそれを疑わざるを得ない状況では、そのルールを自ら提示する能力が問われる。さらにあるパラダイムがそれとは対立する他のパラダイムとどのように関係するのか。あるルールが成立するとして、そのルールに対する反証がいかなるもので、それらの対立がどのような過程を作り出すか。その相互の交渉、干渉、抗争過程自体を組み込んだ行為その過程自体がデザインされなければならない。デザインを形成するルールまで内包したデザインが生まれてくる可能性がある。転換期=例外状況ではなく通常状態であればマーケットが規定するルールがあって、それを読み込み対応すれば良かったが、転換期ではそうはならない。仮説と反証が生みだすダイナミックな過程をもちこまなければならない。通常の意味で建築が不可能な例外状況において建築の起源を考えようとしたのが吉阪隆正。それは国家の起源とも関係する。国家の根拠も国家の法のいわば外部から超法規的に決められている。その例外性を見出すべきである。これからの日本のあるべき姿を問うよりも先に。そういうことを吉阪隆正賞で考えたい。

内藤:
 吉阪先生は額面通りに言っていることを聞いていると、後ろ向いて舌を出しているような人。巳年生まれで、「蛇は捕まえにくいんだ」とときたま自分のことを評していた。とらえどころの無い人だ。人としてはわかりにくいけれどそういう人の方が大きな仕事ができるのかもしれない。
 転換期ということがここまで日本中の人に晒されているというのは希有な時代だと思う。建築家やアーティストが変わるのではなくて、それを受け取る側の多くの人の意識が変わっている。そういう意味でこれまでとはとは違う転換期なのだと思う。残念ながらこの転換期は外発的な転換期であって、内側から変わっていくというものではない。それを内発化するように動き始めているのが現在の状況。三陸の市町村に建築家が毎日のように提案を持って来ているという話を聞いているが、その無神経さはどこから来るのかと思う。それは、建築デザインの無効性を証明しているようにも見える。若い人たちは、自分達が徹夜で生み出そうとしているものが紙くず以上の価値も無いものかもしれないと疑ってみるといい。自らを信じてものづくりをやり続けることにしか道はないのではと思う。そこまで信じることが出来るのかが問われている。「ギャラリー・間」でスタジオ・ムンバイの展覧会をやっているが、スタジオ・ムンバイの仕事の中に我々が意図的に忘れてきたことのすべてが凝縮されているようにも思う。つくることが雇用機会を増やし、職場を与え、建築表現が社会と連続的である。見えないものから見えるものにつながっている。それは吉阪隆正が求めたものではないかと思う。

中谷:
 私は突然変異的で、継続的に見えないものにも注意を払っていきたいと思う。全く違った経緯をもった人達、例えば数学者が3.11を契機としてこれまでとは違う行為をしはじめたとして、その人の生き方においてどういう条件の上にそういった変化があらわれたのか、それを分析できる機会を担保したいと思っている。なぜこういう行為をしたのか、という事の中にその人の生き方の連続性が見いだされ、そして転換期を示唆できる可能性があれば、そういう作品も認めていきたいと思う。

大塚:
 第一回目の結果には納得したが、授賞式のシンポジウムを聞いて、吉阪賞の性格が未だ明確ではないとおもった。吉阪先生の面白さは自分でもよく分からないものに向き合っていく行為を続けていった所だと思う。フレームの外に出て、分からないもの向き合っていくということをやっていた。5回の受賞者によって賞の性格が明確になっていくと良い。

中谷:
 分からないものに向き合っていく行為という視点のは重要かもしれない。吉阪先生が考えていた世界的に危機的な問題というのは簡単に言語化、作品化できないものであって、マグマのような状態で存在している。そういった問題が単純に分かるようにするということではなくて、パースペクティブを持たせるような作品が若い人の中から出てくると良い。

岡崎:
 10年たって分かってくるなんて悠長な事は言っていられない。現在の転換は災害として外発的、突発的に訪れたと思っている人も多いが、前もって分かっていたことではないか。吉阪隆正はエコロジーに対してユーケロジーを唱えた。エコロジーというのは全体の秩序が前提とされているということで、その全体秩序が壊れないように気配りしましょうという論理ともなる。ユーケロジーはそうではなく、何かモノをまずつくると必ず事件、コンフリクトが起こっちゃう、という考え。ものをつくれば他のものとの関係がうまれる。この不連続な事件が連続する過程を仕組みとして考える。しかし、多くの建築家はその事件に責任を持てない、だからあらかじめルールを必要とし、ルールを全体秩序として安定させるべき、人工環境=インフラを整備する。だがインフラがぶっ壊れたらどうするのか、現在のように。つまりモノをつくると必ずルール外、予想外の事件が起こり、潜在的な別のルールが発見される。ユーケロジーはこの不可避の不連続性に基づいているわけです。部分が全体秩序に安定的に帰属しない。それぞれのモノが大小関係なく、相互のありうべき秩序をもとめて、ぶつかりあう。そういうことが露呈するのが転換期。だから小さなネジひとつの発明が建築全体の様相、さらには都市の構造まで変えてしまうということが起こる。ユーケロジーというのは、こういったネジ一つの可能性を考える学問だと考えている。私の中では賞の性格ははじめからブレることなく、はっきりしています。

松山:
 選考委員は無い物ねだりで、自分ができないことを受賞者に求めるものなんですよ。だから具体的に賞の対象がでてこないと、実はなんともいえない。受賞者によって吉坂賞も変化してゆく。その人の力で賞も変わり、場も変わる。それで良いと思うし、自分が続けてきたささやかな仕事と触れあえばありがたい。

内藤:
 吉阪先生というのは、もともとよく分からない人だから、はっきりさせ過ぎると逆に歪んでしまうのではないか。すごく不思議な捉え方をする人。人間社会で起きていることに論理性をもって鋭利なナイフで切り取ろうとするが、そういう自分を外から見ていて、人間なんてそんなもんじゃない、といった目で見ているようなところもある。そこが吉阪隆正の名前を冠した賞の難しさ。ただ、いつも人間に対して目線をそらさない。それだけは確かだ。人間をまるごと飲み込むような人だったと思う。この賞も、人間の綺麗な所も汚い所も丸ごと飲み込むような賞であって欲しいと思う。

中谷:
 ネジ職人が応募してくるというのは難しいと思うが、他薦の資格を持つ生活学会員に是非推薦してもらいたい。他薦で候補を挙げてくれば、選考委員は可能な限り候補者に会いにいく。誰も知らなかった存在を明らかにするということも生活学会員と審査員の役目だと思う。

西川:
 3.11の後、復興イデオロギーの方が優勢であるが、転換は外部圧力によるのでなく、内発的につくっていくしかない。私はこれまで生活学会に近い仕事をしてきたが、誘われてもなかなか入らなかった。これまでは政治と経済と生活は別という線引きがあり、生活学もその線引きをうけいれ学問であるかのようにみえたから。しかし吉阪賞は、生活は社会と無縁なのではなく、生活こそ政治闘争、経済闘争、イデオロギー闘争の場に他ならないということを考えさせるように思います。

内藤:
 若い世代は言葉に出す勇気、表現する勇気が欠けているように思う。若い人にも、是非勇気を持って応募してもらいたい。


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